映画 ターミネーター ニュー・フェイト
I won't be back.
私は戻らないだろう。
(T-800;アーノルド・シュワルツェネッガー)
スカイネットを生み出したサイバーダイン社の技術者は死に、サラとジョンを抹殺しようと送り込まれたターミネータT-1000は溶鉱炉の中に溶解し、世界は救われた。(映画『T2』1991年)
それから多くの年月が過ぎた。
REV-9(ガブリエル・ルナ)
メキシコにある自動車工場の平凡な女性従業員ダニー。
同じ工場に勤める弟と病気の父親との3人暮らし。
早く起きなさいと弟に声をかけ、父親に朝食を用意して「病院に行くんだよ」と言って弟と工場へ出勤する。
昨日もそうやって過ぎたし、今日も同じように過ぎる。
そして明日も同じような一日が過ぎていく、とダニーは思っていただろう。
その街に突然ロボットとサイボーグが現れ、ダニーの目の前ですさまじい戦闘が始まるまでは。
自分を襲ってくるロボット(REV-9)に、ダニーを守ろうとするサイボーグ(グレース)。
「なに?一体これはなんなの?」
逃げなければ死ぬ、とグレースに伴われて弟と逃げる。
なぜ自分が襲われ逃げなければならないのか、事態を飲み込めぬまま高速道路上で弟が死に、絶体絶命の窮地に陥るダニーとグレース。
ダニー(ナタリア・レイエス)とグレース(マッケンジー・デイヴィス)
そして現れたサラ・コナーによって、二人は窮地を脱する。
なぜ、そこに戦闘服のサラがいるのか。
サラからダニーを守る理由を聞かれるが、グレースは答えない。
サラは、きっと私の時と同じだ、と思う。
奴らの狙いは、将来人類の指導者を生むことになるダニーの子宮だと。
そして映画は、一つ一つの謎を明らかにしていく。
ジョン・コナーはどうしたのか。
サラが年老いてもなお戦い続けるのは何故か。
ダニーが襲われた現場にサラを導いたのは誰か。
スカイネットがREV-9を送り込んだのではないなら、その送り主は誰なのか。
なぜT-800は復活したのか。
ダニーが狙われた本当の理由。
そして未来で、ダニーとグレースには何があったのか。
サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)
ジェームズ・キャメロンは『T2』の続編としてこの『ニュー・フェイト』を作った。
平凡で普通の人間が、突然の困難に、しかも人類の未来を左右する事態に直面したらどう立ち向かうのか。
辛くても目の前の事態を受け入れて生きるしかない。
そしてこの『ターミネーター』も、『T2』と同様に、私たち人間の勇気、自己犠牲、失意と愛、そして未来への警告と希望を物語る。
私たちもしかり。
どんなに世界が変わっても、そこに居る者が、困難な人生を受け入れて、やるべきことをやるしかない。
『ターミネーター』は、いつもそう私たちに教えてくれる。
この映画に更なる続編があっても、おそらく、もうT-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)はでてこないだろう。そのためにキャメロンは、T-800に”I won't be back.(私は戻らないだろう)"とそう言わせたのだと思う。
T-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)
サラとT-800の物語は、ひとまず区切りがついたのではないかと思う。
1984年の『ターミネータ』、1991年の『T2』。そして今回の『ニュー・フェイト』で3部作は完結したと考えていいだろう。(注)
ならば、これを見逃す手はない。
(注)他の作品はキャメロンは関わっていないので枝編という位置づけになるのではないだろうか。
S・レビツキー D・ジブラット『民主主義の死に方』
民主主義には明文化されたルール(憲法)があるし、審判(裁判所)もいる。
しかし、それらがもっともうまく機能し、もっとも長く生き残るのは、
明文化された憲法が独自の不文律によって強く支えられている国だ。
共通の基準から逸脱して行動する人に対処する人間の能力は限られている。・・・
不文律がたびたび破られるとき、社会は「”逸脱”の定義の基準を下げる」傾向がある・・・そのとき、かつて異常とみなされたものは正常に変わる。(ダニエル・P・モイ二ハン)
スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方』新潮社(2018年9月)
1989年にベルリンの壁が崩れ、1991年にソ連邦が崩壊して冷戦が終わった時、西側諸国では民主主義社会の優越性を確信した人が多かっただろう。
しかし、世界から独裁政権は無くなりはしなかった。
1990年代になっても、ペルーのアルベルト・フジモリ、ベネズエラのウゴ・チャベス、2000年以降もエクアドルのラファエル・コレア、ハンガリーのオルバーン・ビクトル、ポーランドのヤロスワフ・カチンスキ、ロシアのプーチン、トルコのエルドアンら独裁政権が次々と生まれている。
しかも、その独裁政権のほとんどは民主主義から生まれているものだ。
しかし、アメリカはそんなことにはならないだろう。世界の民主主義国にとってその盟主たるアメリカこそ、民主主義精神の支柱であり、アメリカの民主主義が危機に陥るなどとは考えもしなかった。
当初は泡沫候補と思われていたトランプが大統領になって、「アメリカを再び偉大にする」と言った時、なぜそんなことを言うのだろうと不思議に思った。戦争の混乱や大統領の暗殺があっても、民主主義国として、アメリカはいつだって偉大だったではないか。そう単純に思っていたのだ。アメリカは自らを、もはや偉大な国とは思っていないのか。
この本は、民主主義の最も強固と思われるアメリカでさえ、民主主義は崩れ去る可能性があるものだと述べている。
軍事クーデターによるもの以外で、将来の独裁者は民主主義から生まれ、民主主義諸制度を壊して独裁者となっていく。その豊富な歴史的事例から、どのように民主主義が独裁制に変容していくか、その手法の類似性を明らかにしていく。
①審判を抱き込む
・司法機関、法執行機関、諜報機関、税務機関、規制当局などの独立性を保つ機関が政権の不正を暴くことのないようする。多くの場合、公務員や非党派の当局者をこっそり解雇し、支持者と入れ替えることによって行われる。
・裁判所を支配し、政権に批判的な裁判官を弾劾したり、人数を水増しして政権の意向に沿った裁判官を増やす。或いは、裁判所を丸ごと解体し新組織を作ってしまう。最高裁判所で政府の決定に反対する判決を出させないようにするためだ。
②対戦相手を欠場させる
・選挙で選ばれた独裁者は、対立相手に狙いを定める。対立相手に対し、排除、邪魔、買収を試みる。野党の政治家、野党を支持する企業家、政権に批判的な大手メディア、宗教家、文化人もそのターゲットになる。
・上手くいかない場合、現代では合法性のベールの後ろで抑圧する。侮辱罪、脱税、名誉棄損などで起訴し、政権側に支配された裁判所で裁く。この裁判で(裁判所を抱き込んだ)政権側が負けることはない。
③ルールを変える
・政権基盤を盤石なものにするために、選挙区を恣意的に変更する(ゲリマンダリング)。
・選挙での投票を制限する
審判(裁判所、法執行機関)を抱き込み、対立相手及びその支援者を買収し弱体化させ、ゲームのルールを書き換える。
これを合法性のもとに少しづつ推し進めるから、国民はなかなか気づかない。
そして、自らが作り出すことを含め、国家の危機を利用して正当化していく。
こうしたパターンを、豊富な具体的な事例をあげて述べている。
アメリカの民主主義の基盤には、建国の父祖たちが作った憲法がある。
しかし、よく考えられた憲法があったからと言って、民主主義が上手く機能してきたわけではない。そこには「柔らかいガードレール」というべきものがあった。
つまり、政治に携わる者たちの「相互的寛容」と「自制心」が、民主主義をよく機能させてきたというのだ。
これを失ってしまえば、ライバルは敵になり、党同士の血みどろの戦いになってしまう。長年、お互いに積み上げてきた規範を破り、相手を倒すためには手段を選ばなくなる。
アメリカにおける民主主義変質のきっかけは、1979年ニュート・ギングリッチが共和党の下院議員になってからだと言われている。
政治を戦争とみなし、議会を「腐敗している」と非難し、民主党議員をムッソリーニに喩えるなど過激な発言で注目を集めた。1995年~1999年まで下院議長を務め、ビル・クリントンの不倫疑惑を徹底的に追求したが、あまりにも執拗だったので有権者に嫌われ共和党の支持率が下がったため議員辞職に追い込まれた。
しかしこれ以降、ギングリッチの手法は、議会が混乱しようと手段を選ばない共和党の常套手段になっていく。
民主党支持者が多い選挙区を細分化し、共和党の有利になるよう選挙区を割りなおし、オバマ政権中の最高裁判事の指名を拒否し在任中に指名させなかったりと次々と規範破りをしていった。民主党もこれに対抗するために同じ規範破りで対抗し、「相互的寛容」と「自制心」という民主主義の「柔らかいガードレール」を壊していった。
こうして、トランプ登場の土壌が醸成されていったという。
本を読み終わったとき、トランプが言った「アメリカを再び偉大にする」という言葉の意味を理解した。
トランプの支持母体である白人キリスト教(福音派)の人々にとって、移民やマイノリティの影響力が増していくアメリカは、本来のアメリカではなくなったと認識されていたのだ。だから「もうアメリカは、かつてのように偉大ではない」。それが、トランプの言葉となり、メキシコ国境の壁を作る話につながっていったのだ。
しかし、アメリカは移民の国であることに変わりはない。
自由を求める人々のたどり着く場所だ。
アメリカは、多民族の相克から逃れることはできない。
トランプのやり方を批判し、封じ込めようとする共和党議員もいる。先ごろ亡くなったマケインもその一人だった。トランプのやりたいことが全て上手くいっているわけではない。
かつて、他の国で党同士の血みどろの抗争を克服した国もある。
著者たちは、多民族民主主義というアメリカの挑戦に、いくつかの処方箋を示して本書を終える。
共和党が「柔らかいガードレール」や規範を破っていく様は、目を覆うばかりだが、アメリカの民主主義を支えてきた「相互的寛容」と「自制心」がそう簡単になくなるとは思えない。何より、「自由」という強固な共通基盤がある限り、「自分の自由を守りたいなら、他人の自由を尊重せよ」という「相互的寛容」がそこには根付いているからだ。
随分昔に、仕事で40日ほどアメリカに居たが、接した人はみな大らかで自由だった。
彼らの笑顔が忘れられないだけに、アメリカという国が他の民主国家の強固な支柱であって欲しいと願わずにいられない。
オイラーの公式へ(1)ε-N論法
脳みそは筋肉である。
訓練しなければ、筋肉は衰える。
モンモ・カフェオーレ卿
驚くべきは、数学はその本性により、民主主義的だということだ。・・
数学の資源と数式は、すべての人に同じように理解され、
等しくみんなのものになる。数学的知識は誰にも独占できない。
数学的概念や数式を、自分の発明品だと主張することは誰にもできない。
数式では特許は取れない。
エドワード・フレンケル『数学の大統一に挑む』文藝春秋2015年
ブログではこれからなのだが、個人的にはようやく「オイラーの公式」にたどり着いた。
「n→∞のとき(剰余項)→0なら、関数f(x)はマクローリン展開できる」
オイラーの公式に至るには、ここが山場になる。
とはいえ、ここに来るまで、実は小さな峠をいくつか越えなければならない。
なにせ、モンモは文系である。
高3で昔の「数Ⅲ」、受験は「数ⅡB」まで、大学1年で「解析入門」を勉強したものの、以来長いブランクがあった。
剰余項の処理をめぐって、「どうするんだっけ」と微分の道を遡っていくうちに、
逆関数や合成関数を含む微分公式の証明、ε-N論法、ダランベールの判定法、高次導関数、ロルの定理、(コーシーの)平均値の定理、ロピタルの定理、2回微分による変曲点を含んだ関数のグラフ、そしてようやく「曲線の近似式」へと至ることになったのだった。
上記の各項目を全て学習しなくても、それなりに必要な項目だけつまみ食いをして、「オイラーの公式」にはたどり着く。しかし、それじゃあ、オイラーに失礼というものだろう、と「オイラ」は思ったのだ。
なので、いくつかの練習問題をこなしつつ、身体「筋肉」を使った。
「脳みそは筋肉である」という持論に忠実に、「筋肉」を鍛えようと思ったのだ。
「訓練しなければ、筋肉は衰える」
最初の関門は「ε-N論法」。
「ε-N論法」は、後で出てくる「ダランベールの判定法」の証明に使うので先に載せておきましょう。
という定義を使った証明法なのだが、いきなりではなんのことか分からない。具体的に簡単な問題で紹介すれば次のように使う。
高校数学だと、分子分母をn(の二乗)で割るなどしてn→∞にした処理をしてしまえばそれで終わるが、厳密にはこのような証明に使うというのだ。
「ε-N論法」は「数列の極限」だけでなく、上記と全く同じではないが「関数の極限」「関数の連続性」でも証明に使われる。
このブログではオイラーの公式に特化するので「数列の極限」についてだけにとどめておきましょう。
これを使う証明は、感覚的になじみにくいのでいくつかの問題をこなした方が身につくと思うので、もう一つ簡単な例題を載せておきます。
「オイラーの公式」記事を続けると、数学にはなじみの薄い方には申し訳ないので、とりあえずは「自然科学」のカテゴリーにしておきますが、後日、別カテゴリーを用意するので、そこにまとめて読めるようにしていきます。
なので、通常記事を織り交ぜて、なるべく数学記事は連載とならないように書いていきたいと思っています。
9月、秋の日の近況
経験とは無関係な思考の産物である数学が、
なぜこれほどみごとに現実の物体に当てはまるのか?
(アインシュタイン)
自分の限界をちょっと超えるというのをくりかえしていく。
少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけない。
(イチロー)
夏が過ぎ、ようやく秋らしい空気になってきました。
TVニュースを見れば、相変わらず世界は騒々しく腹の立つことで溢れています。この日本でもたくさんの事件・事故で当事者ならずとも、悲しく辛い思いをすることが多くあります。
なので、こんな世界の出来事に心を疲弊させてはならないと、ほぼTVは見なくなりました。限定的に、日本代表のスポーツの試合や、いくつかの番組を選んで見るくらいです。
必然的に、時間の使い方を考えなければなりません。
やりたいことはたくさんあるのに、時間は限られているからです。
最近、午前中はほぼ数学をしています。
前のブログに、「πの計算」「eの計算」を載せましたが、実はこれをとっかかりにオイラーの式までを順次記載していこうとしていました。「虚数i」を媒介に、何の関係もないと思われる無理数πとeが、ある関係式でつながる不思議さをご紹介したかったのです。
ところが、なのです。
いきなりテイラー展開あたりを復習していたら、頭の中に蘇ってこないではありませんか。剰余項をどう処理するんだっけ?とか、忘れていた部分、ちょっと引っかかった部分、分からないところをさかのぼっていくうち、「ε-N論法」とか「逆関数の微分」とか、オイラーの式とは直接関係のない所を含めて、もう一度「解析入門」を復習しなければならなくなりました。
ここから「ロルの定理」「ロピタルの定理」を経てようやく「テイラー展開」「マクローリン展開」にたどり着くことになります。
ということで、今少し時間がかかるかも知れませんが、見通しがついたところでまたご報告できると思います。
さて、10月から消費税が上がります。
10年以上経った家電製品のうち、冷蔵庫と洗濯機を買い換えました。
TVも12年経つし、リビングのエアコンも来年で10年を迎えます。さすがに全部はちょっと、ということでTVはどうせあまり見ないから、できるだけ長期にもたせて、エアコンは早くても来年の夏前に買い替えようと、消費税対策としては二つに絞りました。
10年以上も前の機種に比べて消費電力も省エネになっているから、電気代もかからなくなるのではと少し期待しています。
モンモには、本は必須なので、多少買いだめしました。
確かヨーロッパ各国では、書籍は国民の文化を支える必須のものだから、消費税はゼロか若しくは低く抑えられていると記憶しています。(間違っていたらごめんなさい)
日本では、ますます本を読まなくなるのではないかと危惧します。
今回買いだめした本(&PCソフト)は下記です。
・S・レビツキー、D・ジブラット『民主主義の死に方』新潮社 2018.9
・佐藤賢一『ブルボン朝 フランス王朝史3』講談社現代新書 2019.6
・佐藤賢一『ナポレオン2 野望篇』集英社 2019.9
・竹山美宏『定理のつくりかた』森北出版 2018.2
・瀬山士郎『数学にとって証明とはなにか』講談社BLUEBACKS 2019.8
・芝野龍之介・虎丸『アルファ碁Zeroの衝撃』マイナビ 2018.5
・Silver Star『銀星囲碁19』(対局囲碁ソフト)
中古本も選択肢にあるのですが、配送料も高くなり、本体価格と合わせると、配送料無料の新刊とあまり価格差がないものもあります。そうしたときは新刊本を買います。
ミステリーファンのモンモにとって、買いたいミステリーも山ほどあるのですが、ミステリーは発行から時間がたつと文庫本では1円、2円というものもあり、配送料を入れても300円~400円くらいで手に入るので、ミステリー本はなるべく中古を買おうかと思っています。
その他、どうせ使う家庭用品もあれやこれやといくつか買いました。
ということで、皆さんの消費税対策はおすみでしょうか。
秋9月、モンモの近況は、数学と消費税対策でした。
モンモのパソコン事情(2)
あらゆる技術的な発展は、基礎科学の研究に支えられている。
もっとも抽象的で現実離れしているように思われた数学や
物理学における発見が、後世、誰もが日々お世話になるような
技術につながったという例は枚挙に暇がない
物事にはすべて原因と結果がある。原因なくしては何事も
起こらないし、何事も生じない。
松井孝典『宇宙誌』徳間書店1993年
PCは消耗品のようなものだから、個人用に使う分には、中スペックのものを5年くらい使えればいいと思っていた。PC能力をフルに使うようなゲームマシンや大量の画像動画処理をするわけでもないので、そこそこ使えればいい。
だから、PCのケアは、せいぜいウィルス対策、ディスクのデフラグ、Windowsのプログラム更新程度しか気を使っていなかった。それで、一台目のPCが「ディスク要求100%」となって立ち上がらなくなって、その原因も分からずに、SSD化で初期化しなくてはならなくなった。
PC性能は、5年もすればハード的にかなり向上するので、動かなくなってそのタイミングで買い替えれば、それはそれでいいのかもしれないが、条件さえ整えて長持ちするのであればそれに越したことはない。
ということで、復活なった一台目も含めてPCケアをもう少しちゃんとしてやろうと思い、いろいろ手当をしたので、まだ途上ではあるのだが一段落したところでご報告しておきましょう。
【二台目のPCスペック】
①CPU;Core i5-7200U 2.50GHz (MAX3.10GHz)
②メモリ;8G、PC4-17000(DDR4-2133)対応SDRAM、デュアルチャネル対応(8Gの増設可)
③ディスク;SSD 512G
【1】PC性能の基本的ハード条件
①CPU性能
②メモリの大きさ
③ディスクIO処理
④通信速度
そして、これを前提にPC内の処理が効率的に行われることが必要だ。
その為には、PC内を無駄のない、すっきりした状態にしておいた方がいい。
が、ブラックボックス化したPCの中まで一般のユーザーにはほとんど分からないのが実情だが、分かる程度にはPCのケアを行うことはできる。
【2】動作環境に関する事項
①各種ドライバーが古いままで更新されていない。
②ディスクの断片化が進んでいる。
③ウィンドウズが作った作業ファイル、ログファイルが残っている。
④ブラウザが一時的に作った作業ファイルや履歴が残っている。
⑤レジストリに不要な設定情報が残っている。
⑥ほぼ使わないサービスなのにバックグラウンドで動作しているソフトがある。
⑦PC設定で無駄な動作を抑止する。
【3】使い勝手に関する事項
ここは個人の好みの問題で、効率的な動作とはほぼ関係がないが、気になるところは改善したい。
上記から、二台目のPCで具体的に対応したものを記しておきましょう。
(一台目のPCもほぼ同様の手当てをしている)
【1】ハード条件
①CPU;Core i5 だが、第7世代だからそう悪くはないほうだろう。
②メモリ;8G増設して計16G、通常20%くらいしか使っていない。
③二台目はもともとSSD内蔵で、HDDより圧倒的に速い。
【2】動作環境に関する事項
①各種ドライバーの最新化
DriverBooster6.6 Free (http://jp.iobit.com/free/driverbooster.html)
上記フリーソフトをダウンロードして、5つほど古いドライバーがあったので最新化を行った。必要なものだけ選択して更新できる。
②ディスク断片化のデフラグ
Windowsのデフラグ機能(SSDの場合は「最適化」)を使うことが出来るが、下記ソフトをダウンロード。但し、分析機能のみ使用。断片化はほぼ起こっていないので、外付けHDDのみデフラグを行った。ディスクがマッピングされて、視覚的にディスクの状況が分かる。HDDのデフラグも高速。
SmartDefrag6(http://jp.iobit.com/product/sd.html)
有料のページになっているが無料版がダウンロードできる。
③④⑤⑥ゴミファイルの一掃、不要なサービス無効化
ゴミファイルが蓄積され動作が重くなったり、フリーズするのを防ぎ、バックグラウンドで動作するソフトを無効化するソフトをダウンロードして一気に掃除した。
Advanced SystemCAre12 Free(http://jp.iobit.com/free/ascf.html)
最初に全項目チェックを行い、改善できる項目がどれだけあるか見てみると2000以上の項目が出てくる。使ってまだ8ヶ月ちょっとでこれだから、知らないうちにどれだけのゴミやらが溜まっていたかが分かる。
ただ無料版ではすべて改善されるわけではなく、更に改善したいなら有料版を勧められる。が、無料版でも基本的なところはカバーしているだろうと思い、有料版は使っていない。
⑦PC設定で無駄な動作を抑止する。
・広告ブロック;IEは重いので、ブラウザは「エッジ」を使用している。エッジ(若しくはクローム)の拡張機能「uBlock Origin」で目障りな広告をブロックする。厳格なブロックを外すこともできる。
「uBlock Origin」は、ストアで無料取得できる。
・Windows10で戸惑ったのは、PDFだ。PDFを開くのにエッジが標準アプリになっている。機能的にも動作的にもPDFは「アクロバットリーダDC」(無料ダウンロード)に限る。
・Microsoft IMEでの文字入力では誤変換のデータ送信を頻繁に求められる。内部的にデータが保持され送信待ちになっている。送信する義理はないので、蓄積データ削除、送信オフにした。
・タスクビューに、過去の参照・閲覧記録が大量に保持されている。これを一切保持せず表示しないようにした。
・デスクトップアイコンの整理。デスクトップに多数のショートカットアイコンを置いておくと立ち上がり時にアイコンのリンク先の確認作業が入るので時間がかかる。必要最低限のアイコンだけにして、後はホルダーにまとめておけばいい。デスクトップはすっきりさせておいた方がいい。
【3】使い勝手に関する事項
PCの効率動作には無関係だが、使い勝手に関わるものとして下記を設定し直した。
①エクスプローラーのクイックアクセスに、勝手にフォルダーが登録され煩わしい。
必要なら自分で登録するように設定を変え、勝手に登録できないようにした。
②デスクトップに常に「ゴミ箱」が表示されている。が、「ゴミ箱」表示は不要なのでデスクトップから消した。「ゴミ箱」の実態が無くなるわけではなく、エクスプローラー最上位に出て来るので、必要ならここで「ゴミ箱」を扱えばいい。
ざっと、上記対応で一段落とした。
まだ他にやりたいこともあるので、それは又別の機会に致しましょう。
モンモのパソコン事情(1)
コンピュータがいかに進化し、いかに高度な知能を持って
人間を凌駕しようとも、彼らは徹頭徹尾、科学の道具以上の
ものにはなり得ない。
松井孝典『宇宙誌』徳間書店1993年
多くの人が最も気にかけるのは安全ではなく、機器がちゃんと
動くかどうか。一番の脆弱性は、人間の愚かさなんだ。
ケビン・ミトニック(アメリカ伝説のハッカー、1995年にFBIに逮捕され実刑判決)
2014年3月に買ったPCが2018年12月下旬に、「ディスク要求100%」状態(タスクマネージャー)となり立ち上がらなくなった。
一般的に、PCの減価償却期間は5~6年だと思うので、購入して4年9か月はちょっと早い。購入時は、Windows10が出始めだったので、型落ちのWindows8.1(64ビット版)を安く買ったのだった。
この一台目のPC(dynabook/T554)のスペックは下記。
・15.6型ワイド、TFTカラーLED液晶
・CPU;インテルCore i5-4200U、動作周波数;1.60㎓(最大2.60㎓)
・メモリ;8GB(最大16GB;8GB×2スロット)、PC3L-12800(DDR3L-1600)対応SDRAM、デュアルチャネル対応
・HDD;1TB(5400rpm、Serial ATA対応)
これは中くらいのスペックで標準的なものだろう。
しかし、ディスプレイの左上の隅に黒い横線が長さ2~3cmの幅で3~4本ほど入ってしまっている。とはいえ、メモリを8G増設したので少なくとも6年は持って欲しいと思っていた。
PCが使えなくなると困るので、緊急避難的にやむを得ず新たにWindows10のPC(二台目のPC、13.3型)を1月初めにアマゾンで購入した。OSが変わって使い方が異なるので若干戸惑ったが、インターネット、エクセル、ワードの基本的なところは使えるようにして事なきを得た。
データは、バックアップを外付けHDDに取っていたので大丈夫だった。
ここでは、一台目のPC(Windows8.1)をどうしたかをお話ししましょう。
内臓HDDがハード障害となっている可能性はあるので、もしそうなら対応不可。
ハードが大丈夫なら、初期設定で復旧可能。
なので、動作を速くしたいのもあってSSD化を兼ねて物理的にHDDをSSDへコビーをして、SSDへ換装しようとした。もしハードがNGならSSD化もNGだ。ところが、PCの裏蓋を開けてみたら、HDDを簡単に取り出せそうにないと判明、がっかりして裏蓋を閉じざるを得なかった。
但し、このまま捨てるにはもったいないので、東芝のサポートセンターに連絡してSSD化を頼んだ。OSはWindows8.1のままと言われたのだが、画面が大きくて(15.6インチ)見やすいのと「オンキョー」のスピーカーが入っていて音がいいので、捨てるよりはいいだろうと思ったからだ。
ということで、一台目のPCは復活した。
しかし、なのである。
確かに、SSDにしただけのことはあって立ち上がりは圧倒的に速い。
データはすべて外付SSD、HDDに保持してあるから、本体SSDは1TBにもかかわらず、Cドライブは55GBほどしか使っていない。(使い方はこれから考えようとしているところなのだが)
ブラウザは、標準のインターネットエクスプローラー(IE)。これが思わしくない。
ウェブページを閲覧している途中で結構遅くなる。
仮想通貨のマイニングも疑ったが、それほどネットサーフィンはしていないのでその可能性は低いと考えた。タスクマネージャーで見てみると、ディスク要求は問題なし、ネットワークデータ送受信も問題なし。
ところが、IEのCPU使用が常時10~15%が長く続く場合が多くあり、時には30%を維持することが常態化している。
CPU稼働は、高くてせいぜい30%ほどでないと、使っていて重く感じる。
それなのに、何もしていない状態で、IEのCPU使用が10~15%は異常だろう。
一体何をしているのだ?
ということで、IEに問題ありと判断し、別のブラウザを試してみることにした。
ブラウザは下記のように種々あるが、定番のグーグルクロームは、ダウンロード時にエラーとなり上手くいかなかったので、この中から他の2つのブラウザを試みた。
【Vivaldi】”Opera"の元CEOらが開発しており、宇宙最速のブラウザを目指している。
【firefox】Mozillaが開発するオープンソースのブラウザ。
どちらも、IEに比べ圧倒的に軽い。
ウエブページ表示後では、CPUは0~2%程度で、IEとは較べるべくもない。
CPU稼働;Vivaldi<firefox<IE
メモリ使用;Vivaldi<firefox<IE
レスポンスとしては、Vivaldiもfirefoxも同じように速くて軽快。
メモリー使用は圧倒的にVivaldiが少ない。
IEをお使いの方で、重く感じる場合は、Vivaldiが個人的にはお薦めだ。
それとPCの仕様にもよるが、余裕があればSSD化、メモリー増設をしておくのがいい。
それでは、二台目のPC(Windows10)についてはまた別の機会に。
劉慈欣 三体
科学全般の発展は、基礎科学の進歩によってもたらされる・・
基礎科学の基盤は、物質の本質を探究することにある。
もしこの分野でなんの発展もなければ、科学技術全般において、
重大な発見や進歩がなされることはない。
(劉慈欣『三体』早川書房2019.7)
「三体」と聞いて思い浮かべるのは、「3つの天体が互いに万有引力を及ぼし合いながら行う運動」のことだというぐらいであった。その運動を記述する一般解は存在せず、いくつかの特殊解があるだけだ。
amazonで、劉慈欣『三体』早川書房(2019年7月)というSF本を見かけた。
中国語版だけで2100万部(三部作累計)の発行部数という。
・2006年 中国のSF専門誌『科幻世界』に連載
・2008年1月 単行本刊行
・2014年 英語版出版
・2015年 ヒューゴー賞長編部門を受賞(アジア初)
・2017年1月 オバマ大統領がインタビュー記事で言及し全米で注目
日本語訳もこれが最初ではないようで、語学テキストの部分訳もあり、最初の日本語訳を参照しつつ、並行して英語版からの日本語訳という手順で本書が出版されたようだが、新聞広告でも見た記憶がない。
こうした経緯で日本語訳発売が、単行本発売からモンモが知るまで、10年以上もかかったということになるが、どんな形であれ、不覚にもモンモのアンテナには検出されなかった。
中国のSFというとあまりピンとこない。かの国では自由な発想での言語表現には自ずと制限がありそうで、SFの豊饒な土壌が育まれているとはなかなか思えない、というのがベースにあるからなのかも知れない。許される小説の内容は政治とは全く無関係の内容のものか、政治的プロパガンダのようなもの、なのではないかという一種の固定観念があったのかも知れない。
読んでみれば、こうした懸念は全く無用であった。寧ろ理不尽極まりない文化大革命を背景にして物語は始まり、こうした政治状況への批判すら内包している。
経済的な豊かさと科学技術の発展を背景に、中国にこうしたスケールのSF小説が生まれたことは、寧ろ必然だったのではないかと思わざるを得ない。
SFたらしめている科学的基盤は、物理学・数学をはじめ、天文学、宇宙論、素粒子物理学、ナノテクノロジー、コンピュータ、分子生物学などだが、著者はそれらの今日的科学技術の進展状況を踏まえて、さらに将来の見通しと未来を著者自身の想像力で大胆に構想する。あるいは全く異なる科学的アーキテクチャを創造し、一貫した論理性のもとに物語を展開する。
そして、人類の歴史、哲学、その他すべての文化的生産物をその要素にしつつ、物語を組み立てていく。いわば、SFはその時代が生み出す、文明・文化のレベルを反映する「総合知」の様相を呈している。
この小説は、これまで人間が獲得してきた科学技術の延長線上の科学を背景にしているので、読者には受け入れやすいのではないか。但し、創造された物語としての構築物は、はるかに巨大なものだ。
系外惑星の知的生命体へ向けて発信されたメッセージが受信された。
そして地球へ返された驚くべきメッセージは、
「・・あながたに警告します。応答するな!応答するな!!応答するな!!!・・」であった。
その意味は?
通信は成功し、しかしコミュニケーションは誰かに独占されたとしたら?
地球は侵略されるのか?
一方で、三体恒星の不規則な運動下にある惑星の生存環境が、ヴァーチャルリアリティゲームで体験できるのだが、そこにはガリレオ、コペルニクス、ニュートン、アインシュタイン、始皇帝、墨子、フォン・ノイマンら歴史上の人物たちが現われ、主人公とともに、三体恒星の動きを把握しようとする。目的を達成できずにゲームオーバーするときは、その惑星の文明が滅びる。繰り返し、繰り返し文明は進化しつつ滅びる。こうしたゲームを作った者の意図とはなにか。
ゲームの中で、始皇帝の命令のもとで、フォン・ノイマンが作る3000人の人列コンピューターが現れる。論理積(AND)、論理和(OR)、排他的論理和(XOR)などの論理演算を、人間が旗を上げ下げして行う「計算陣形」には思わず笑ってしまった。
そして同時に、随分昔にモンモがプログラムで好んで使ったのも、これら演算と同じビット命令、そしてシフト命令だったと懐かしく思った。もうアセンブラー言語を書ける人は、絶滅危惧種になり果てているだろうが。
ともあれ、オバマ大統領がこの本に触れこう言っている。
「とにかくスケールがものすごく大きくて、・・これに比べたら、議会との日々の軋轢なんかちっぽけなことで、くよくよする必要はないと思えてくる」
地球に責任をもつアメリカ大統領が担う責任すら、ちっぽけなものと思わせる巨大な物語を、あなたも読んでみてはいかがだろう。ひょっとしたら、あなたにとって大きな問題も、ほんの取るに足りないものだと相対化されるかも知れない。
まあ、保証の限りではないが。
それでもあなたは、劉慈欣という巨大な知性の出現には驚きを禁じ得ないだろう。
「大化改新」の真実 (2)
国家の統一と安寧のため、何をも辞さぬ決意。
どれほどの奇策を弄し手を汚そうと、どれほど人を裏切り、
殺して怨嗟の的となろうとも、いっさい意に介さない心。
それが必要でございます。
自分の汚さに耐えられる者でなければ、政治家、治世者にはなれません。
(藤本ひとみ『ノストラダムス』集英社)
(注)宮廷闘争を戦おうとするアンリⅡ世王妃、孤立無援のカトリーヌ・ドゥ・メディシスに言った言葉。
さいわいなことに、歴史は人間をその動機によってでなく、
行動によって判断する。
(マイクル・クライトン『緊急の場合は』早川文庫)
こんなところで早々と負けるわけにはいかない。
戦う「自由」を放棄して、
見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかない。
(福井晴敏『OP.ローズダスト 上』文春文庫)
※この記事を書いている間、ずっとこの曲を聴いていたのでついでにお楽しみください。
歴史はいつも謎に満ちている。
そんな時いつも、関連する事項を含めてできるだけ全貌を概観してみる。
事実を先入観なしに見つめ、証拠のない出来事を説明できる論理があるか考えてみる。
こうした思考実験から時として、自分でも思いがけないリアルな歴史の相貌が姿を現すことがある。
今回の記事は、前回記事でご紹介したヒロゴンレポートの論評というより、想像力を逞しくして描いた皇族・豪族たちの描写、ということになってしまった。
【皇位継承をめぐる豪族との関係年表】
・安閑天皇、宣化天皇の後ろ盾であった大友金村は、朝鮮半島政策の失敗を咎められ540年に失脚。
・蘇我稲目は物部氏と対立していた。
・587年4月 用明天皇崩御
・587年6月 蘇我馬子は、物部守屋が次期天皇に推した穴穂部皇子を殺す。
・587年7月 蘇我馬子は、穴穂部皇子を支持して対立していた物部守屋を殺す。
・587年9月 蘇我馬子の推薦で崇峻天皇即位
しかし実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満を持っていた。
・592年12月 蘇我馬子は、天皇は自分を嫌っているとして多数の皇族群臣と謀って、崇 峻天皇を臣下に殺させた。
・593年1月 推古天皇即位(蘇我馬子の支持)
・628年4月 推古天皇崩御
推古天皇の後継をめぐって山背大兄王(蘇我氏諸流の支持)と田村皇子 (蘇我蝦夷の支持)が争う。
蘇我蝦夷から山背大兄王へ皇位辞退圧力があった。
・629年2月 舒明天皇即位(田村皇子)
・641年11月 舒明天皇崩御
・642年2月 皇極天皇即位
蘇我入鹿が古人大兄皇子を天皇にする中継ぎとして皇極天皇を推薦したこ とで、山背大兄王と蘇我氏との対立は決定的となった。
★643年12月蘇我入鹿は、山背大兄王を殺す。(中大兄皇子17歳、鎌足31歳)
☆645年7月10日乙巳の変、中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我一族を滅ぼす。 (中大兄皇子19歳、鎌足31歳)
・645年7月12日皇極天皇は孝徳天皇に譲位
★645年10月中大兄皇子は、謀反の密告によって古人大兄皇子を殺す。 (中大兄皇子19歳、鎌足31歳)
・654年11月 孝徳天皇崩御 (孝徳天皇は中大兄皇子とは遷都をめぐって対立した)
・655年2月 斉明天皇(重祚)実権は中大兄皇子が握る。(中大兄皇子29歳)
★658年12月 有間皇子は、蘇我赤兄の謀反を唆され、逆に赤兄に密告され捕まる。
中大兄皇子に尋問され捕まった翌々日に絞首刑。(中大兄皇子32歳、鎌足44歳)
・661年8月 斉明天皇崩御
・663年 白村江の戦いに敗れる
・668年2月天智天皇(中大兄皇子)即位42歳(~672年1月崩御45歳)
上記年表と「皇室と蘇我氏の関係略系図」(以下「略系図」)をしばし眺めてみよう。
『詳説日本史研究』山川出版社1998年
【皇族・諸豪族の覇権争い】
そう、皇族と大伴氏、物部氏、蘇我氏たち諸豪族は、天皇の皇位継承をめぐって常に争っている。皇族は具体的な政治や軍事を担う豪族を必要とし、豪族は一族の権勢発展を目的に皇族と関係を持とうとする。つまり、天皇という権威、実権に自分たちがいかに関わることができるかが重要だった。
だから、皇族・諸豪族の間で派閥・党派のようなものがあったと考えるのが自然だろう。内政、外交をめぐる対立も、結局のところこうした党派間の争いであり、最後は天皇の座をめぐる争いとして顕現する。
皇族は、自分が天皇になるために、或いは自分の息子を天皇にするために、有力な豪族と手を組み関係を深める。豪族はといえば、天皇に娘を嫁がせて、あわよくば孫を将来の天皇にしてそれを後見するために、一族の権勢を高めていこうとする。
従って、馬子が穴穂部皇子を暗殺したのも、崇峻天皇を暗殺したのも、その後逮捕もされず何の咎めも受けずに、炊屋姫尊を支持し推古天皇にできたのも、明らかに蘇我氏と推古天皇の共謀があったと考えるほうが合理的だ。
皇族と諸豪族は共通の利害で動く派閥的集団を形成していた。そして、究極的には天皇の座をめぐる権力闘争を繰り広げることになった。それはまた、後世にも見られる関係でもある。
【中大兄皇子と中臣鎌足】
焦点を中大兄皇子付近に持ってくると、ある事実が浮かび上がってくる。
天皇の座をめぐって、中大兄皇子のライバルたちが次々と殺されていくのだ。
(年表「★」「☆」、「略系図」参照)
643年12月入鹿が山背大兄王を殺した時、中大兄皇子は17歳だった。さすがに、17歳がこれに何らかの関りを持っていたとは思えないが、しかし、645年の乙巳の変を起こした時はまだ若干19歳だったから、物心ついてすぐの17歳の時期に、自分の立場や行く末について考えはしただろう。
そして、山背大兄王が一族もろとも滅ぼされたとき、皇族でも隙を見せれば自分だって殺されるのだと、若いが故に強く心に刻んだ事件だったのではないか。
或いは将来を考え、ライバルを潰してくれる蘇我氏の側に立った可能性だってあったかも知れない。そして「蘇我入鹿、次はお前たちだ」と決意するほどに、恐ろしい若者だったかもしれない。
蘇我氏全盛期であれば、他の豪族には不満をもっている者もいただろう。そして、自らのあるべき人生に導いてくれそうな、あるいは相談にのってくれそうな人物に出会ったとしたらどうだろう。12歳年長の中臣鎌足がその人だった。
人生には師とすべき人物がいるものだ。19歳の若者が一人で蘇我氏撲滅を計画したとは考えられないだろう。参加するものの命を懸けて、方針を立て、組織を作り、実行部隊を指揮し、実行しなければならないのだ。実行まで事を秘し、事が成就した後の措置を含めて、乙巳の変は周到に練られた計画だった、とモンモには思える。
中臣鎌足こそ乙巳の変を計画した首謀者だったとモンモは考えている。遣唐使の留学生だった南淵請安の儒教塾で入鹿と鎌足は二人とも優秀な生徒だった。このライバル関係が作用した可能性もある。これ以上、蘇我氏を皇族に入り込ませてはならないと。
乙巳の変が成功したからこそ、孝徳天皇期にずっと内臣を務め、皇太子となった中大兄皇子と天皇をつなぎ、中大兄皇子の側近であり続けた。左大臣であった石川麻呂とともに、孝徳天皇を見張っていたかも知れない。それ故、天智天皇は、鎌足が死ぬ間際に「藤原」姓を贈ったのだと思う。
師であり、相談役であり常に側近にあった彼なくして、中大兄皇子の人生は切り開けなかった。蘇我氏庶流の石川麻呂を仲間に引き入れ、自分とともに蘇我一族を滅ぼし、ライバルたちを亡き者にし、斉明天皇の権力を有名無実化して自らが実権を握ることができたのも、中臣鎌足が天智天皇の生涯の参謀・側近であったからだ。
【蘇我氏の滅亡と中大兄皇子】
蘇我氏の視点からこの「略系図」をみれば、これだけ天皇の候補者がいれば、自らが天皇にとって代わろうなどと考えること自体が無理というものだ。それをしたら皇族を全部敵に回さなくてはならず天皇に娘を嫁がせて、外戚として力を持つ方が合理的だったろう。
共通の利害を持つ皇族と手を結び、おのれの基盤を維持・強化すること。しかし自分に対立する天皇・皇族を排除するには、有力な皇族の支持がなければならない。穴穂部皇子、崇峻天皇を暗殺したときは推古天皇のような明敏な人物がいた。蘇我氏の推薦を受けたとはいえ推古天皇は、ただの傀儡ではなかった。
皇極天皇だって、古人大兄皇子よりは実子である中大兄皇子に天皇になって欲しかっただろう。蘇我蝦夷、入鹿を殺してすぐ、古人大兄皇子を殺し、孝徳天皇の遷都には大勢の一族・豪族を引き連れて逆らった中大兄皇子にしてみれば、残った有間皇子など怖くなかったはずだが、念には念を入れて蘇我赤兄を使って罠にはめて刑死させている。
この周到さを見ると思わず慄然とする。
蘇我氏と組んだ古人大兄皇子の場合だって、蘇我氏が扱いやすかった分、強い気概を持った人物でもなかったと思われ、中大兄皇子にしてみれば組みしやすかったに違いない。しかも、その後ろ盾を滅ぼしているのだから問題はなかったはずだ。それでも謀反の疑いをかけて殺している。一流のリスク管理と言うべきだろう。
蘇我氏滅亡の理由は、唯一、中大兄皇子の人物を見抜けなかったことだろう。
天皇にとって代わろうと専横を究めたことが、乙巳の変の原因ではなかったと思う。
中大兄皇子にとっては「天皇になる」という強い意志を持ちつつ、自分が生き残るためのクーデターのようなものだった。
計画が発覚することもなく乙巳の変を実施できた中大兄皇子側に、一日の長があったのだと思わざるを得ない。
ここまで書いてきて、何となく信長を思い起こしてしまった。
信長は49歳で死んだが、天智天皇もまた45歳という若さで死んだ。信長のように謀反にあったわけではないが、その行動の果断さといい、斉明天皇が崩御した後も、7年間も即位しなかったその自由さといい、実権を握って豪族たちを抑えられる実力があったからこそ、即位などしなくてもいいのだという強い自負を感じる。
乙巳の変の時19歳、それから崩御するまでの実質26年間の、疾風怒濤の人生だったと思われる。
【ヒロゴンの問題意識に即しての追記】
①蘇我氏は「悪人」ではなかったが、見た資料が不足しているせいか、評価できるほどのものは見いだせなかった。中大兄皇子も「正義者」ではなかった。しかし、古代史において最も傑出した人物の一人だったと思う。
二人は、自らの利害のために政治的闘争の結果、勝敗を分けた。蘇我氏には突然のクーデターのようなものだったが。
結果的に、歴史書を書くものによって、それぞれの人物像が作られ後世にイメージされるようになった。が、後世の歴史資料の検証によって、徐々にそのイメージに修正が加えられてきたのは、偏見を持たない歴史研究の成果だろう。
②大化改新の諸政策が実施されたのは事実だった。が、本格的に始まったのはヒロゴンレポートにある通り天智天皇が即位してから、天武天皇にかけてではないかとモンモにも思われる。
天智天皇は、白村江の戦いに敗れ、国力をつけなければと思っただろう。
そこから、彼は本格的に「大化改新」とされた諸政策を推進することになったのだと思う。
後は、ヒロゴンレポートにあったように、『日本書紀』の編纂過程で鎌足の息子の藤原不比等らが修正を加えた。それが、天智天皇を生み出し、共に人生を切り開いた父鎌足へのなによりの弔辞であったのだと思う。
ダン・ブラウンが『ダ・ビンチ コード』に書いたように、歴史は、いつだって勝者のものである。
歴史はつねに勝者によって記される…
一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。
みずからの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。
ナポレオンはこう言っている。
「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない」
【最後に】
ヒロゴンレポートを読まなければ、上記のような中大兄皇子の人物像にはたどり着けなかった。
恐らく想像するに、彼は独立心に富み、自由で、諸豪族からの人望の厚い、古代において傑出した人物だった。モンモが歴史小説を書く作家なら、信長とともに是非書いてみたい魅力的な人物だったと思う。
ヒロゴンには、とても面白い「ミステリー」レポートを読ませてもらったことを感謝したい。
(参考資料)
ヒロゴン『大化改新の真実』2018年7月
五味文彦 他編『詳説日本史研究』山川出版社1998年
『必携日本史用語』実教出版1998年
Wikipedia(蘇我氏、天智天皇、中臣鎌足、推古天皇、崇峻天皇、推古天皇、皇極天皇、孝徳天皇他)
「大化改新」の真実 (1)
歴史はつねに勝者によって記される…
一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。
みずからの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。
ナポレオンはこう言っている。
「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない」
友人のヒロゴンが、去年レポートをくれた。
題して『「大化改新」の真実 大化改新は本当にあったのか?なかったのか?』というA4版14ページに目次2ページ、資料2ページのピンク表紙付きの立派なレポートである。それをお土産にもらったモンモたち3人は「お~、すご~い」と感嘆の声。
ならば、そのレポートに敬意を表さねばなるまいと、ブログでご紹介し、若干の論評を加えたいと思う。
(注)ヒロゴンにブログで紹介してもいいかと聞いたら、今考えられているものをまとめただけなので遠慮するとのこと。なのだが、まあそう遠慮せずに、せっかくの労作を「向学」の皆さんのために無駄にはできないと、ご紹介するものです。ヒロゴンご容赦を。
【ヒロゴンの問題意識】
①「逆臣」蘇我氏はなぜ「悪人」から、評価される人物になったのか。中大兄皇子と中臣鎌足は、なぜ「正義者」でなくなったのか。
②「乙巳の変」を除く「大化改新」は本当に行われなかったのか。
以下はヒロゴンレポートの超要約(参考文献;谷口雅一『大化改新 隠された真相』)。尚、レポートの趣旨を損なわずに補足した部分は「(モンモ補足)」と記述した。
(左)天智天皇(右)中臣(藤原)鎌足 (Wikipedia)
【日本書紀】
①681年天武天皇が編纂を命じ、持統(在位686-697)、文武(697-707)、元明(707-715)、元正(715-724)の期間に作られ720年に時の元正天皇に奏上された。完成まで41年がかかっている。
②編纂を命じたのは天武天皇だったが、編纂期を通じて、持統天皇~元正天皇までは天智系で占められている。天智天皇を顕彰することは当然だった。
③皇極天皇紀(巻24)の中の「乙巳の変」のかなりの部分が潤色・加筆されて創作されている。巻24は700年頃には中国原音を知る渡来中国人が書いたとされているのに、万葉仮名が使われている箇所が少なからずあり、中国語に堪能でない日本人が何らかの理由で潤色・加筆したのではないかとされる。
④714年国史撰述の詔(父天智天皇の顕彰に務めていた元明天皇)以降に潤色・加筆されているというこの時期、719年天智天皇顕彰の詔、716年「乙巳の変」の大功労が表彰されている。そして701年大宝律令を経て718年養老律令制定(モンモ補足)を主導した人物が、持統天皇期に頭角を現してきた藤原不比等(鎌足の息子)であった。
次に進むまえに、天皇家と蘇我氏の関係図を載せておきましょう。これを見ながらの方が理解が進むと思います。
(出典『詳説日本史研究』山川出版社1998年)
【日本書紀における蘇我氏専横の記述】(「⇒」は、蘇我氏専横に否定的コメント)
①蘇我馬子たちは炊屋姫尊(後の推古天皇)を奉じて穴穂部皇子(野心家で過激な行動をする人物)を殺害した。
⇒「炊屋姫尊を奉じて」とあるので馬子が独断で行動したわけではない。
②馬子は崇峻天皇を暗殺した。
⇒馬子は捕らわれていない。暗殺の翌月に推古天皇即位。即位翌月、推古天皇は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺に仏舎利を安置。
⇒馬子は崇峻天皇と対立、推古天皇は息子の竹田皇子へ皇統を持ってきたかったので、利害が一致した。馬子と推古天皇との共謀説はありうる。(遠山三津男『蘇我氏四代』)
③蝦夷は先祖の廟の前で、中国の天子の特権である「八佾の舞」を舞わせた。
⇒この舞がこの時代日本に伝えられた証拠はない。
蝦夷は国中の人を動員して、自分と入鹿の墓を作った。
⇒馬子の墓ですら蘇我氏一族で造ったから、それより小さな墓を国中の人を動員して作ったというのは考えにくい。
④入鹿は一人で謀って山背大兄皇子を暗殺した。
⇒「藤原家伝」には、諸皇子と共謀して乱を招く恐れのある「国家の計」のために滅ぼしたことが記されている。
⑤中臣鎌足は、入鹿が国家をわが物にする野望(上記記述)を抱いていることに憤って、王の一族に明哲の主を求めた。
⑥蝦夷と入鹿は、甘樫丘に家を並び建て、それぞれ上の「宮門」、谷の「宮門」と言った。子は「王子」と言った。
⇒「宮門」「王子」は「日本書紀」固有の記述、「藤原家伝」他の資料にない。
なぜ甘樫丘に家を並び立てたかについては、立地条件から見て、クーデターや諸外国からの首都防衛のためではないか。
【天皇家と蘇我氏の関係】
①稲目は二人の娘(小姉君、堅塩媛)を欽明天皇に嫁がせた。
②小姉君は崇峻天皇、堅塩媛は推古天皇と用明天皇を生んでいる。(馬子の甥、姪にあたる)
③馬子は、二人の娘を厩戸皇子(聖徳太子)と舒明天皇に嫁がせている。
④6~7世紀、蘇我氏が滅びるまで、蘇我氏は天皇家の安定化に寄与した。一方、蘇我氏もまた、天皇家との結びつきを自らの権力基盤とした。
⑤孝徳天皇は入鹿の遺志を継ぎ、乙巳の変後難波に遷都した。
孝徳天皇は遷都を巡って中大兄皇子と対立していた。(モンモ補足)
【蘇我氏の業績評価】
聖徳太子は律令制度の礎を作ったが、蘇我氏が横やりを入れ邪魔をしたので中大兄皇子、中臣鎌足が蘇我氏を殺して邪魔を排除したことになっている。
⇒蘇我氏は豪族から土地を取り上げ天皇の直轄領にしてきた。「屯倉制」の導入に積極的だった。
⇒馬子は二度の遣隋使を送り、蝦夷も最初の遣唐使を送ったように国際情勢に明るかった。
【蘇我氏が殺された本当の理由】
①百済が唐によって660年に滅ぼされた。中大兄皇子は親百済派で、百済再興を目指した。一方、蘇我氏は朝鮮半島、中国に対しては全方位外交であり、中大兄皇子とは対立関係にあった。(対韓政策の対立)
②入鹿が山背大兄王を殺した後、天皇家とのつながりは古人大兄王子だけになり、彼が皇太子の位置づけにあった。天皇の座をめぐっては、古人大兄皇子は中大兄皇子とはライバル関係にあり、中大兄皇子が天皇になるためには、古人大兄王子のバックにいる蘇我氏を葬る必要があった。(天皇の座をめぐる対立)
【大化改新は本当にあったのか】
●改新肯定論;蘇我氏滅亡が大化改新であり、改新の詔が律令国家の起点となった。(坂本太郎氏)
●改新否定論
①蘇我氏の滅亡が大化改新というのは日本書紀の特異な記述。「藤原家伝」に改新の事績は記述なし。
②『日本書紀』巻25・孝徳天皇期に誤用が目立つ。しかも「大化の詔勅」群に集中。これは、中国人の執筆者が亡くなった後、『日本書紀の』最終段階で潤色・加筆が行われたためである。(森博達『日本書紀の謎を解く』)
「改新の詔」について(「⇒」は否定的コメント)
・第一条;公地公民。皇族の私地私民(子代・屯倉)、貴族豪族の私地私民(部曲・田荘)を全て収公し、その代償に給与を与える。
⇒公民制は戸籍を作ることと人民に対する国家的支配関係を整えること。
最も古い戸籍は670年の庚午年籍(天智朝)。国家的人民支配体制は、664年民部と家部に分けられた後、672年壬申の乱を経て673年以降の天武天皇の支配した時期にようやく完了したと考えられる。従って、公地公民制も疑問。
・第二条;中央・地方の行政制度と交通制度を整える。中央では畿内を国・郡・里に分け在地有力者を官人に任命し、要地にには関塞、斥候、防人を配置。中央と地方は駅伝制で連絡する。
⇒「郡」「郡司」は8世紀大宝律令以降の表現。7世紀後半は「評」「督領」「助督」が使用。(郡評論戦)
昭和42年藤原宮から発見された木簡から、「改新の詔」は大宝令から転載・修飾があったことが決定的になった。
・第三条;全国の土地・人民を戸籍・計帳を登録し、公地を人民に割り当てる班田収授の法を作る。
⇒「日本書紀」は、班田完了4か月後に戸籍を作ったとあるが、造籍が完了してから班田を行うので、第三条は疑わしく、従って「改新の詔」の原詔の存否が疑わしい。(岸俊男『造籍と大化改新詔』)
・第四条;旧税制廃止、新税制制定。耕地面積に応じた田調を取り、戸別の戸調を取る。官馬・兵士・仕丁・采女の諸経費も戸別に徴収。
【「大化改新」についての結論】
①「大化改新」の実態は存在した。しかし、「蘇我氏を滅ぼしたことによって、律令国家を目指す大政治改革が始まった」というのは否定すべき。
②いつ、いかにして「大化改新」に相当する政治改革は始まったか。天智朝(在位668-671)天武朝(672-684)期に663年「白村江の戦い」に敗れたことを契機に、唐を模倣した律令国家を目指して始まった。
以上が、ヒロゴンレポートの超要約である。
これについてのモンモなりの見解を次回の記事に書いてみましょう。
THE DA VINCI CODE by Dan Brown
聖杯は古のロスリンの下で待ち
その門を剣と杯が庇い護る
匠の美しき芸術に囲まれて横たわり
ついに輝く空のもとに眠る
(ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチコード』角川書店)
YouTubeで、映画「ダ・ヴィンチコード」のテーマ曲を何曲か聴いていたら、また本が読みたくなった。捨ててはいないからどこかにあったはず、と大型の6つの書庫を探し回ったがどうしても見つからず、つい再度買ってしまった。内容は知っているので、どうせならと、写真やイラストが多数載っている『THE DA VINCI CODE SPECIAL ILLUSTRATED EDITION』999部の限定版の一冊を買った。「特装革製 ヴィジュアル愛蔵版」とあった。
ここに登場するダ・ヴィンチの作品は、被害者自らがその身体を使って残したメッセージとなる「ウィトルウィウス的人体図」、「モナリザ」、「岩窟の聖母」(ルーブル版)、「最後の晩餐」、そして2~3枚ほどのノートに記された工作機械スケッチだ。
サンドロ・ボッティチェリを引き継いで1510年からダ・ヴィンチがシオン修道会の総長となったということや、ダ・ヴィンチは聖杯を「最後の晩餐」に描きこんだというのは、いささか問題だと思う(じゃあヨハネはどこ行った?)のだが、それをさておいてもミステリーの素材としては魅力に溢れている。(注)
ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
殺人事件を発端にして、現場に残された暗号を解いてゆくのだが、解けば次の暗号が・・と連鎖していく。過去にコンスタンティヌス帝やヴァチカンが葬ったキリスト教の歴史、そして聖杯とは何か、フランス警察に追われながら主人公とともに残された暗号の謎を解こうとするソフィーの隠された過去、そして次第に明らかになってゆくシオン修道会の姿と役割、テンプル騎士団や死海文書など歴史好きにはたまらないテーマがこの一冊に凝縮され、壮大な物語になっている。
ダ・ヴィンチ以外の様々な歴史的図像、絵画や建造物(ルーブル美術館、テンプル教会、ロスリン礼拝堂など)が豊富に出て来るので、西洋美術、聖書になじみの薄い人には、いささか抵抗があるかもしれないが、パリ、ロンドンに旅行で行くことがあるなら、一読して行けば歴史に対する興味や楽しみも増すことだろう。
長い歴史の中に隠された血脈、パリの古の「ROSE LINE」を辿って行ったその場所に永遠の眠りについているもの。ひょっとしたら、あなたにもそれを感じられる旅になるかも知れない。
それでは別バージョン Hans Zimmer The Da Vinci Code を載せておきます。
(注)1492年サボナローラが現れて以降ボッティチェリの作風は変わり、1501年には絵を描かなくなり、1510年に極貧のうちに死んだ。ダ・ヴィンチは宗教画を描く以外は宗教とは関わらなかったし、「最後の晩餐」(ミラノ)の完成は1498年、フランスへ行くのは1516年冬。なので、サンドロもダ・ヴィンチもシオン修道会の総長というのは非常に考えにくい。